再就職した夫の初出勤でした。定年退職後の夫の就活を振り返って「ああ今の日本にゾラがいてくれたら!」。 [さしすせそ]
初出勤の感想としては、仕事内容も勤務時間も求人票にあった通りの、定年後の仕事としては無理のないものだったということでした。といっても、研修中ということもあり、慣れるまでは覚えることもいろいろとあって、ちょっと大変だけれど……と夫はいいました。
継続雇用になっていた場合と比較すれば、金額的には低くなりますが、仕事の内容からすれば、文句はいえないでしょう。また、継続雇用だと1年更新の契約扱いでしたが、この場合は正社員で65歳が定年。それ以降も本人が希望し、勤務態度に問題がなければ継続も可とのことです。
ただこのご時世、先のことはわからないと考えて、それなりの用心や備えは必要だろうと夫と話しました。とはいえ、どう用心し、備えればよいのかがわかりませんが、8ヶ月間で身についた倹約精神を潤いがなくなってしまわない程度に保ち、わたしはプロになるための試みを続けたいと思ってます。
職場はきちんとはしているけれど、想像したより堅苦しさのないフランクな雰囲気だったとのことですし、この仕事のために新しく購入すべきものも特になさそうで、その点でもわたしはホッとした次第。
ざっと8ヶ月間のことを思い返すと、政府にいいたいことがいろいろとあります。雇用対策があまりにも手抜き、中途半端だと感じました。ポリテクにはありがたい面が色々とありましたけれど、結局企業とのパイプがなければ、そこで身につけた技能を就職に生かすことは事実上不可能です。あれだけの設備とシステムを備えていながら、まことにもったいない話だと思います。
夫は運よく就職できたにすぎません。再就職が決まる前に落ちたのは、お猿さんで有名な公園の清掃作業でした。1人の欠員募集に、結構な人数が集まったのです。冬場は沢山求人の出ていた警備員の募集も、この時期には少なくなります。
このままいけば生活保護の申請、下手をすればホームレスという現実に直面せざるをえませんでした。自然の地盤も経済の地盤も同じように不安定な今の日本では、誰もがそんな状況に陥る可能性があります。自分は財産がある、よい職に就いている、老後の蓄えが潤沢だ……というのはある意味で幻想にすぎません。
現在の日本の問題を自分のこととして、そして自分だけがよければいいという考えは捨てて(結局はめぐりめぐって全ては自分に返って来ることになるのですから)、考えるべきときでしょう。
清掃にすら落ちたときにもがっかりはしましたが(誰にでもできそうな清掃だからこそ、希望者が多いと考えるべきでしょうが……)、本当に奈落に突き落とされたような気がしたのは、長年勤め上げた職場から、継続雇用を匂わせるだけ匂わされて放り出されたときでした。
期待させられなければ、もっと早い時期から準備ができたでしょう。企業がエゴをむき出しにできるのは、政治がそのように機能しているからです。
加えて、夫の古巣は、現場では固まっていたアルバイトの話すら人事部に上がった段階で潰しました。しかし結果的には、冷たくされて、もっと人間らしい雰囲気の職場に行くことができたのですから、冷酷もときとしてはトリックスターともなるのだと感心します。
わたしは夫の新しい職場が前職のような圧迫的な職場でないかどうかを一番心配しましたが、今度のところは伝統を感じさせるような場所で、職場の雰囲気も悪くはないようです。人が人を、人とも思わず、容赦なく使い潰すような商業主義一辺倒のような現在の風潮は、何とかならないものかと思います。
貧しすぎては人は人らしくいられませんが、少しくらい貧しくても、人としての品位が保てる環境にあれば、日々の幸福感を損なわれるところまではいきません。新自由主義という経済思想が今の日本の思想であり、カラーとなっていることが第一の問題だとわたしは考えています。
わたしはもう何年も前に『地味な人』という小説を書き、アメリカ型商業主義の弊害をテーマとしました。某文学賞で三次落ちしたその小説は、古いワープロで書き、感熱紙で印字したものしか保存できていないので、そのままにしておけば、消えてしまいます。
幸い、過日購入したプリンタにはスキャン機能が備わっているので、そのうちブログにアップするか電子書籍にしたいのですが、あの当時に、わたしのようなネコ踏んじゃったの段階の作家志望ではなく、例えばゾラのような力のある作家が同じ問題を追究してくれていたならば、日本は変わっていたかもしれません。
今だって、そうです。日本のプロ作家は何をしているのですか? 日本の現状を断片的に採り上げて、描写したり素材にしたりして、月並みな、あるいは猟奇的な小説に仕立て上げたりすることはできても、鋭く病巣を抉りとってみせるだけの脳味噌がありますかしら?
映画「ブリューゲルの動く絵」のレビュー [あいうえお]
昨日、『ブリューゲルの動く絵』という映画を観た。
監督は、ポーランドのレフ・マイェフスキ。2011年、ポーランド・スウェーデン製作。
公的な出生記録の存在しない当時、画家ブリューゲルがいつどこで生まれたのかはわからないが、1525年から1530年の間に生まれたと推定されている。
1551年、アントワープの画家組合にマイスター登録。アントワープ、次いでブリュッセルで暮らした。
小さな港町だったアントワープはブリューゲルが暮らした当時、ヨーロッパの中心都市として繁栄を極めていた。
ブリューゲルはそこで長く暮らし、1552年頃にイタリア旅行。1562年、ブリュッセルに移り住んだとされる。
ブリューゲルの絵に入り込んだみたいな気分にさせられる、リアルな映像だった。
パンフレットによると、
①ポーランド、チェコ、オーストリア、ニュージーランドでのロケーション撮影した映像
②ブルーバックの前で演技する俳優たち
③7×20メートルもの巨大なキャンバスにマイェフスキ監督自身が描いた《十字架を担うキリスト》の背景画
が、編集の段階で組み合わされたという。
16世紀のネーデルラントの日常に、人類の記憶の中で屈指の事件(ここでは新約聖書中最も深刻な一コマ)がさり気なく置かれるというブリューゲルの手法がよく理解されて製作された、見応えのある芸術映画となっていた。
ストーリーらしいストーリーはない。
ルトガー・ハウアー扮するブリューゲルが、マイケル・ヨーク扮するパトロンのニクラース・ヨンゲリンクに《十字架を担うキリスト》のモチーフや構図を語らせるかたちをとって、ただ、ただ、絵の解釈を示すことに終始した映画だった。
どこまでが実物で、どこからが絵かがわからないほどだった。
登場人物たちの衣装は16世紀フランドル風の色合いを出すために野菜や果物を用いて染められた手縫いの作らしいが、よい色合いだった。わたしは聖母マリアの衣装のやわらかで上品な色合いに魅了された。
画家ブリューゲルを演じたルトガー・ハウアーは悪くはなかったが、ブリューゲルの自画像からすると、重厚さがタフ・ガイに置き換えられてしまったという風貌に加え、透徹した鋭さという感じがあまりなく、物足りなさは否めなかった。
老年期にあるシャーロット・ランプリングが、嘆きの聖母マリアと16世紀に生きる主婦とを二重写しにしたような二役を好演。
怜悧な感じが年輪を重ねることによって和らぎ、抑制の利いた気品のある表情はなかなかよかった。
新婚らしき仔牛売り夫婦がピクニックのように食事を楽しんでいたのが、暗転。
男性が赤い服の騎士たちに散々鞭打たれたあと、ポールの先にとりつけられた車輪に置かれて空中高く晒され、鳥に啄まれる車輪刑に処される場面では、顔を覆ってしまった。
それはまるで、チベット仏教などでは神聖とされる鳥葬の、あくどい戯画化のようだった。
何て残酷でグロテスクな見せしめなのだろう。キリストの磔刑のほうがまだしも刑としては人間らしい、と感じさせるほどだった。
処刑が日常化した中でも、子供たちは生き生きと遊び、飼われて使役されたり売られたりする動物たちは可愛い。
ネーデルラントの日常生活に暗躍した異端狩り。
大人たちには、平静と無関心とを装って暮らさざるをえない過酷な現実があった。
ハプスブルク家がスペイン他ネーデルラントも支配していた。
ハプスブルク家フェリペ2世の命令で、ネーデルラントの異端を一掃するため、スペインからアルバ公が送り込まれた。
密告制度が恐怖政治を出現させたといわれるが、アルバ公がブリューゲルの暮らすブリュッセルへやって来たのは、1567年。映画に登場する『十字架を担うキリスト』が描かれたのはそれ以前の1564年だった。
アルバ公進軍のその年、ブリューゲルは40歳前後だったとされる。
不吉な予兆がブリューゲルに『十字架を担うキリスト』を描かせたのかもしれない。
アルバ公の進軍以前から民衆を苦しめる様々な事件が勃発して、既に人口は減少していたのだった。
アルバ公の評議会は8,000人のネーデルラント人に死刑を宣告。
ブリューゲルの死はアルバ公進軍の2年後、1569年のことだった。
死の前年に、『盲人の寓話』『絞首台の上のカササギ』『人間嫌い』『農夫と鳥の巣取り』『足なえたち』『嵐の海』といった傑作が矢継ぎ早に描かれていく。
率直すぎるくらいの作風とブリューゲル自身とが弾圧の対象とならなかったのが不思議なくらいだが、ブリューゲルは死の直前、妻に指示して危険と思われた素描画を焼かせたという。
亡命する人々も多い中、ネーデルラントにとどまり続けた画家ブリューゲルが深刻な現状にどのように向き合ったのか、わたしはずっと興味を持ち続けているのだが、あの時代のネーデルラントを、現代の技術を駆使して再現しようとした映像に、ブリューゲルの絵に一歩近づけた気がした。
ブリューゲルが正統派(カトリック)だったのか、それともカルヴァン派、ルター派、再洗礼派などの異端派だったのかは不明だが、ブリューゲルの絵の傾向からすると、カトリック一辺倒な人物にはありえないモチーフや構図である気がする。
森の中での秘密の宗教集会の模様を描いた『洗礼者ヨハネの説教』は1566年に描かれている。
冷酷無比な人として知られたアルバ公の軍隊のやって来たのがその翌年だから、絵に描かれた人々は、野ウサギのように迫り来る足音に耳をそばだてながら集会に参加し、そして、多くが処刑されていったのだろう。
余談になるが、時を遡ること、ヨーロッパ中世最大の異端派として知られるカタリ派にとって、森はかけがえのない存在だったと、アーサー・ガーダムはいう。
カーダムは、イギリスで精神科医として高名だった人だが、自らの過去生の一つがカタリ派としての人生だったと自著『二つの世界を生きて――精神科医の心霊的自叙伝』(大野龍一訳、コスモス・ライブラリー、2001年)で語る。
輪廻転生を信じ、殺生を禁じ、世俗権力の否定と禁欲で知られたカタリ派は《西欧の仏教》と呼ばれることがある。
ガーダムによれば、カタリ派は、しばしば森で集会を行ったそうだ。また、森の中を逍遥することを愛した彼は、そこで瞑想したり薬草を集めたりし、また身を隠すために森へ行ったと書く。
絵の中の岩山の高みにある風車小屋の存在は謎めいているが、全能の神をシンボライズしたかのような映画の描きかたには、疑問がある。
それにしては、絵の風車小屋はあまりにさり気なく、つつましく、平和に存在しているからだ。
一つの達観、あるいはタロットカードでいう運命の輪(宇宙法則)をシンボライズしていると捉えるほうがぴったりくる気がするが、もしかしたらこの風車小屋は、一個人を超越した画家としてのブリューゲル自身をシンボリックに表現したものなのかもしれない。
参考文献
- 中野孝次『ブリューゲルへの旅』(河出書房新社、1980年)
ローズ=マリー・バーゲン&ライナー・バーゲン『ニューベーシック・アート・シリーズ ピーテル・ブリューゲル』(ダッシェン・ジャパン、2002年
また、こんなときにミューズが…… [まみむめも]
その基本姿勢に変わりはありませんが、幼年童話で賞を狙うというガチガチの目的を離れてリラックスしたせいか、今朝、ふいに、インスピレーションがまばゆい小鳥のように降りて来ました。
そのインスピレーションの中に、子供の頃にリンクする夢や空想、最近の失意のもととなっている失われた旅行などが全て含まれていて、たっぷり1時間は極上の気分に包まれていました。まるで、1時間だけ彼の世に里帰りしたみたいでした。
だって、わたしは――過去記事でも書きましたが――彼の世のすばらしい空気や光の仄かな記憶を前世における僧侶時代の修行の賜物として持って生まれたのです。
脳は1回ごとに新しくなるので、脳の記憶であるはずはありません。これは神秘主義でいわれる人間の七本質についての知識がない人には説明しにくいのですが、簡単にいえば霊的な記憶です。
ストーリーはインスピレーションの中に自ずとあったのです。
現実に帰り、これは小学校低学年向けの童話にできるのではないかと思いました。せっかくだから、賞に応募し、落選してもそれはその賞の価値観からリジェクトされたにすぎないので、そのあとはブログで発表したり、ブログサービスで書籍化するのも楽しいわね……と計算高く考えました。
幼稚園児向きのは今のわたしにはつらくても、少し年齢を上げればいけるかもしれません。小学校低学年によさそうな内容なのです。
いやはや、ナンという節操のなさでしょうか?
わたしの場合、賞は鬼門で、それを意識したら、インスピレーションが全然降下してくれなくなるのですね。昨日のふてくされかたといったら、我ながら笑えます!
そこを意識が離れたとたん、というのはいつものパターン。
しかし、賞を狙うために考えたり、勉強したりして、インスピレーションが降りて来られるだけのしっかりした器を形成していたことが大きいようにも思います。
インスピレーションにはミューズが関わっていらっしゃるのですから、これは賞に応募するしないに関わらず(そのような世俗的なことにミューズが関わられることはないでしょう。たぶん、どうしようと、それは人間の勝手です)、作品は完成させなくてはなりません。
久しぶりに、ミューズの鮮烈な存在感を身に受けました。Pを書いていたとき以来でした。ミューズなしの日々は、書いていても、ずっと灰色でした。まるで光源氏を待ちわびる女君のよう……なんちゃってね。
そういえば、裕徳稲荷神社で、ある思いがけない出来事がありました。気持ちの綺麗なときに書きたいと思っているうちに、時間が経過してしまっています。
河津武俊著「耳納(みのう)連山」(鳥影社、2010年) ①『雲の影』『耳納連山』 [かきくけこ]
河津さんから、すばらしい小包が届いた。基幹ブログ「マダムNの覚書」の過去記事で紹介した『雲の影』『耳納連山』を収録した単行本が2010年に出ていたようだ。もう一作『野の花』も収録されている。本のタイトルは「耳納(みのう)連山」(鳥影社、2010年)。『耳納連山』に対する河津さんの思いが察せられる。
「日田文学」が平成21年5月15日付で発行された57号を最後に休刊になってから、3年が経過した。「耳納(みのう)連山」が上梓されたことを知っていたら、買ったはずなのに。小包の中には、別の一冊「秋の川」もあった。
「手段を尽くして世に出てください」などと、年賀状で檄を飛ばしたことを受けて送ってくださったのだろう。お返事に「あなたはまだ若いですから、これからです」とあった。わたしは河津さんがおいくつになられるのか、正確には知らなかった。
本の奥付に著者紹介があり、生年が記されていた。1939年のお生まれだ。今年で73歳。河津さんだって若いじゃないの。わたしと19歳しか違わない(まあ20代の方々にはついていけない話かもしれないが)。若々しいので、団塊の世代かと思っていたほど。
年賀状では近況を知るにも限界があった。医者の仕事は、まだおそらく続けていらっしゃるのだろう。荒地を購入して公園化……とあると、何だか領主様みたいだわと思った。教育関係の仕事を頼まれ……とあれば、まあ日田のチェーホフ!と思ってしまうが(作風はシュティフター)、文学のほうは?
マグダラのマリアを、わたしは思想的に東西をつなぐミッシング・リンクだと考えているのだが、河津さんは戦後世代とはいえ日本文学の伝統を受け継いだ貴重な作家の一人で、世に出ていて当然の人だと考えている。河津さんのような作家を文学界が世に出していたら、文学界はここまで荒れず、文学界が日本社会に及ぼす影響もはるかに良質のものであったろうと思う。
わたしは『耳納連山』の掲載された「日田文学」を、もうお亡くなりになったが、フランス文学者の田辺保先生にお送りしていた。そのときの返信で、田辺先生は河津さんの『耳納連山』を絶賛していらっしゃった。
河津さんの諸作品に関する100枚程度の評論を書こうと思ったのはまだ同人雑誌が出ていた頃だから、わたしは亀だ。しかし、夫の定年後の就活が難航中で、この先も書き続けられるかどうかさえ、見通しが立たない。
書き続けられたら、半年くらいかける予定で、いずれ仕上げたいのだが、いつスタートさせるかなど、この時点では具体的なプランの作成とまではいかない。わたしは「日田文学」の後期に加わらせていただいたので、河津さんの未読作品を読む作業から始めなくてはならない。それから、河津さんの評論にあった――河津さんご自身が影響を受けたという――作家たちについても調べなくてはならない。
まずは、送っていただいた本の紹介だけでもしたいのだが、萬子媛のエッセーをブログにアップし、そのあと童話を仕上げなければならないので、簡単な本の紹介すら来月にならないと書けない。ホントに亀だ(実はリクガメは足が速い。わたしもリクガメくらいに速く書けるときもある)。
『雲の影』は、老齢となった恩師との交わりを丁寧に描いた作品で、美しいとしかいいようのない作品……。
恩師は、《私》が医学生だったときの外科学の先生で、その関係の域を出なかったが、《私》は先生を憧憬し、敬慕していた。
まるでそのときの思いが叶うかのように、恩師の退官後十年を経て、親しく交わる機会が訪れる。先生の人柄や趣味、家庭的な事情なども知るようになる。恩師との交際におけるエピソードが、次々と空を流れる雲のような筆致で書き連ねられていく。師弟を包む情景のため息の出るような美しさ。
『耳納連山』では、山の美しさに人間の心の機微が織り込まれて、リリカルな描かれかたをしている。何て陰影深い、ゆたかな筆遣いなのだろう……! 何枚もの山の絵画を観るようだ。まさに山に捧げる讃歌であり、山にこの作品を書かせて貰った作者は幸せであり、作者にこの作品を書いて貰った山は幸せだと思った。
基幹ブログ「マダムNの覚書」における関連記事
- 『雲の影』⇒http://elder.tea-nifty.com/blog/2009/05/post-ec42.html
- 『耳納連山』⇒http://elder.tea-nifty.com/blog/2006/07/post_bce2.html
あけましておめでとうございます [あいうえお]
あけましておめでとうございます
あなた様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
今年もよろしくお願い致します。
ワタクシ的にも、日本自体にも、大変な出来事が起きた昨年でしたが(詳しくは基幹ブログ「マダムNの覚書をご参照ください)、新しい年がやってきました。
空は現在曇りがちですが、明るさがのぞいている部分もあります。今後のことをピンからキリまで想像し――いえ、かなり硬直した心ではピンのほうはなかなか想像しにくいものがあります――、新年早々慌しい心のうちですが、人間ならではの勇気と知恵を働かせて柔軟に対応したいと考えています。
ステファン・マラルメ〔1842―1898〕の詩『乾杯の辞』を受けて、新年のスタートとしましょう。「世界詩人全集10 マラルメ ヴァレリー詩集」(西脇順三郎・平井啓之・菅野昭正・清水徹訳、新潮社、昭和44年)より。マラルメ詩集は西脇順三郎の訳です。
“ 乾杯の辞
何もない、この泡、純白な詩
コップを象徴するだけの。
遠くにあんな一群の
人魚が沢山投身するさかさまに。私達は航海している、私のいろいろの
友達よ、私はすでに船尾にいるが、
君達は豪華な船首となり
雷と冬の波浪を切り開く。何か美しい酔いが私を招く
その動揺を恐れなく
直立しこの乾杯を捧げるようにと
孤独へも暗礁へも星へも
また私達の帆の純白の労苦を
値したどんなものへも。”
キム・ジョンイル総書記の死、雀たちの死 [かきくけこ]
北朝鮮のキム・ジョンイル(金正日)総書記が17日に心筋梗塞で亡くなった。69歳。
今やすっかり有名となった女性アナが超厳粛に、力強く、その死を報じていた。
キム・ジョンイル総書記の死を嘆き悲しむ人々の過剰な身振りと表情に、わたしは目を見張り、画面に釘付けとなった。演劇を見るようで、つい、それが見たさにニュースを見てしまう。
あなたがたから、糧と自由を取り上げた男ではないか。その死を祝うのが筋であろう。超凡庸なキム・ジョンイルが、何かいいことを一つでもしてくれたというのか?
彼は、毛沢東のお粗末な産業政策及び農業政策を猿真似することしかできなかった。
軍備増強のために重工業ばかり重視して軽工業を軽視し、自然のありかたを無視した農業政策により、国土の荒廃と飢えを進行させたのだ。
北朝鮮では、稲とトウモロコシに注目されてきたという。
稲は、苗の密植と生態系を無視した駆除(雀が大量に殺処分された)によって、害虫が大量に発生してだめになり、大飢饉を招く結果となった。
「全土段々畑計画」を掲げ、木を伐り、山を削って、根の浅いトウモロコシを大量に植えたことが、砂漠化現象や洪水の原因をつくった。
何ら有効な手段も打たれないまま、食糧配給もストップ。
大仰に嘆き悲しむ一般人の本当の気持ちを知りたいと思うが、独裁体制の下、密告を恐れるならば、大いに嘆いてみせなくてはならないのだろう。洗脳されて、麗しい指導者に映っていた向きもあるのだろうか。命がけで嘆きのポーズを取っているのだと思えば、オソロシイ光景にも見えてくる。
でも、日本だって、他人事ではない。エネルギー問題、TPP問題を抱え、下手をすれば……いや、その前に、定年制と引き上げ途中にある年金、就職難――といった制度の間隙に落っこちたわが家は、夫の定年退職後、不安にさらされていて、先のことなど、ほとんど何も考えられない状況に陥っている。無能無策にしか見えない野田首相の生気のない顔を見るたび、暗い気持ちにならざるをえない。
執筆中の児童文学作品の参考に、馬に乗ってみました。 [さしすせそ]
児童文学作品にギリシア神話からある動物を作品に借りてくるのですが、その動物は馬に似ているので(というと、ユニコーンかペガサスですわね。文学賞に応募の予定なので、これ以上はいえませんが)、馬に乗ってみることにしました。
その動物を描写するには、馬の写真や動画を見るだけでは心許ないのです。まだ8枚しか書いていませんが、これはミューズからの借り物だとしか思えない、よいものに仕上がる予感があるだけに(仕上がるまでは苦しむでしょうし、賞狙いによいかどうかは別問題)、とにかく馬に接してみることにしました。
現実に接することが創作にとっていいとは限らず、どうかすると、空想を萎ませる原因となることもありますから、微妙ではありますが、やはりここは体験してみるほうに賭けることにしました。
乗馬体験1回コースを予約したのは9月15日の木曜日で、連休中の娘のレッスンも予約しました。ブーツ、ヘルメット、ボディプロテクターのレンタル、保険込で、地域割引が利き、2,300円。これは1回きりの体験となりますが、リーズナブルでありがたいと思いました。
フランス・イタリアに行くはずが、こうなってしまいましたが、過日仕上げた短編小説と、今書いている児童文学作品は、たぶん旅行に出かけていたら、書かなかったでしょう。乗馬体験もなかったでしょう。
そう思えば、それほど惜しくはありません。何より、短編を書き上げるときに、ある確かな手法を掴んだ気がするのですね。どうしても手に入れたい手法でした。お金で買うことはできず、長い間書いていても、それまでのわたしには手に入らなかった手法……あるコツのようなもの、といったほうがいいかもしれません。
外国へは、行けるようになったときに行けばいいのですから。『不思議な接着剤』を仕上げるべきときが来たら、行けそうな気がしています。
わたしが乗ったのは《ジャス》くんという、もとは競馬に出ていた26歳になるサラブレッドの茶色い牡馬。人間でいえば、60歳くらいだそうですから、夫くらいと考えればいいわけですね。
娘が乗ったのは《しゅうまい》くんという白馬。焼売みたいに白いからかしら? ユニークな名前ですね。19歳。やはり牡馬で、何という種類だったかは娘もわたしも忘れましたが、サラブレッドより脚がずんぐりしています。
牡馬より、去勢していないから、牝馬のほうが気が荒いそうです。
450キロあるそうです。
最初は、ポンポンと首筋を叩いたり触ったりしてコミュニケーション。叩くくらいしないと、馬は感じないとか。おなかの下のほうは敏感。馬を刺すハエ(虻かな。神話のペガサスは虻に鼻を刺されるんですよね)を嫌がって、体を震わせたり、首を動かしたりしていました。尻尾には感情の表現はないそうです。
次に馬に乗りました。乗り降りのときが一番怖かったです。おなかを両足でポンと叩くと前進(アクセル)、手綱を引くと停止(ブレーキ)、曲がるときは、曲がる方向に手綱を引く(ハンドル操作)……と基本はこれだけだと教わりました。
馬を歩かせながら片手を上げたり、お尻を叩いてやったり、腰を上げ下げしたり。最後に軽く走らせて終了。曇りでしたが、お蔭で涼しくて快適でした。
馬が人間の歴史に密接に関わり、乗り物として利用されてきたわけが馬に接してみて初めてわかりました。巨大な犬の扱いかたを教わりに行く感覚を想像していたのですが、どちらかといえば、車の運転を習いに行ったような感覚でした。
スキンシップも犬猫とはまた違う感覚で、我関せずといった風の馬のさりげなさ、それでいて、それとなく全てを感じ、読みとっているかのような静的ムードは独特だと思いました。魅せられました!
馬は視界が広いそうで、背中に乗っているわたしの顔以外はだいたい見えているということでした。だから、乗り手が何をしようとしているのかをかなりの確率で察知するのだそうです。知能は4歳くらいだそう。
馴れた乗り手は鞭を使ったりするそうですが、あれは音がよく出て、馬にとってはほとんど痛くはなく、音で命令を伝えるのだそうです。
ちなみに、馬は泳ぎも上手で、犬掻きならぬ馬掻きをするとか。見せていただいた雑誌に、海を馬で行く人間の写真があり、指導員のNさんもモルジブで、馬に乗って海を行ったことがあるそうです。馬の大きな体は、予想外に水によく浮くとか。ボートみたいに。ただし、乗り手も一緒に手漕ぎしたくなるくらい、スピードが出ないそう。
馬の話は聴けば聴くほど新鮮で、わたしが漠然と抱いていた馬についての固定観念は悉く覆されて、痛快でした。
ここの会員になるには、入会費がちょっと高いですが、普通のお稽古事感覚でできる金額なので、娘は迷っています。
高級だった乗馬体験を、40年前に一般のレベルでもできるようにした草分けが、この乗馬クラブ・クレインだとか。全国展開型の乗馬クラブです。「教習所とお考えください」というお話でしたが、時間割がきちんと組まれているなど、システム化されていて、雰囲気的にもそんな感じでした。
作品ができたら見せに来てください、と指導員のNさんがおっしゃいました。馬に触れさせていただき、馬についていろいろと教わって、本当によい乗馬体験でした。
急性の書きたくない病に罹った昨日とバルザックの悲鳴。スタインベック『白いウズラ』を読んで。 [かきくけこ]
昨日は、2ヶ月で完成させ、120枚となる予定の児童文学作品のメモの整理とプロット設定に入るはずだった。ところが、急性の書きたくない病に罹り、サボった一日……そのとき、バルザックを連想したのは僭越な話だが、過激な執筆の合間に書かれた悲痛な手紙を思い出して、あのバルザックも人間だった、と自らを慰めたのだった。
現在のわたしにとって、書いていられる時間というのは、かけがえのないものであることを実感していながら、書きたくないときは書きたくないのだ。いくら赤ん坊が可愛くても、ときには育児から解放されたいと思う母親の気持ちと似たようなものだろう。まだ、疲れがとれていないせいかもしれない。
そういえば、女性革命家として有名だったローザ・ルクセンブルクは、疲れたら、一層働くことで疲れを癒したそうだ。ローザは革命の闘士とは思えない繊細な感受性を持ち合わせた人で、獄中で、自然や人生の機微に触れた数々の美しい手紙を書いた。
バルザックの話題に戻り、悲痛な手紙の文面をクルティウス『バルザック論』(大矢タカヤス監修,小竹澄栄訳、みすず書房、1990年)から抜書きしておきたい。
“私には生活する暇がありません。
彼は日夜働いているのだと、ご自分にいい聞かせてください。そうしたら、ひとつのことにだけ驚かれるでしょう。私の死亡通知がまだ届かないこと。
私はペンとインクに繋がれた、ガレー船の奴隷なのです。
私は、人間と事物と私との間に繰り広げられるこの果てしない闘いに疲れきってしまいました。
私はペンとインクに対する恐怖症です。それが昂じて肉体的苦痛を感ずるまでになりました。
(坐ったきりの生活のおかげで、彼は太った。すると、新聞がこれをからかった。)
これがフランスです。美しいフランスです。そこでは仕事が原因で振りかかった不幸が嘲笑されるのです。私の腹が笑い物になっています! 勝手にするがいい、彼らにはそれしか能がないのですから。私は知性の戦闘のさなかに斃れるでしょう。
私はまるで鉛球に鎖で縛りつけられた囚人のようです。
私の望みは柩に入れられてゆっくり休息することだけです。でも仕事は美しい経帷子です。
私の生活は、ただ単調な仕事一色に塗り潰されています……時折私は立ち上がり、私の窓を士官学校から……エトワール広場まで埋め尽くしている家々の海原を眺めます。そうして一息つくと、また仕事にかかるのです。
仕事がきっと私の生命を奪ってしまうだろうと、私は確信しています。
今や私は、全く実りなき仕事に十年間をつぶしてしまったのです。もっとも確実な収穫は、中傷、侮辱、訴訟等々。
絶え間なく、そして次第に烈しさを増す我が伴侶、窮乏夫人の抱擁。
神よ、私のための人生はいつ始まるのでしょう! 私は今日まで誰よりも苦しんできたのです。
私は自分に暗澹たる運命を予見しています。私は私の望みの一切が実現する日の前日に、死ぬことになるでしょう。
そうです、自分の体全体を頭に引きずり込んでおいて、罰を受けずにいる者はいません。私はただただそう痛感するばかりです。
私はもう自分の状態を、疲労とはいえません。私は文章作成機になってしまいました。私は自分が鋼鉄製のような気がします。
私はもう一行も頭から引き出せません。私には勇気も力も意欲もありません。”
いつも陽気だったといわれるバルザックが人知れず上げ続けた悲鳴。悲鳴を上げてやめるのではなく、悲鳴を上げながら書き続けたところがあっぱれだ。彼が天才であったことは間違いのないところだが、手紙の悲鳴からは、あの超人的な仕事が凄まじい自己犠牲によって成し遂げられたものであったのだとわかる。
バルザックの崇高な仕事に比べたら、わたしの書くものは「へのへのもへじ」の段階にすぎないが、それでも書くことが遊びとしか認められていないことには異議があり、世に出られない不満からゴミ箱のために書いているのではないと誰かにいいたくなることがあるが、ゴミ箱行き程度でしかないのだろうかとふと思うこともある。
でも、バルザックを想えば、諸々のことがただ恥ずかしくなり、さあ書こうと思うだけだ。
昨日気晴らしに、ポプラ社から出ている「百年文庫 15 庭」に収録されたスタインベックの『白いウズラ』を読んだ。同じものが他の人の訳で岩崎書店「ジュニア版 世界の文学4 赤い小馬」に収録されていて、昔読んだ記憶がぼんやりとあった。
中学生にはわからなかったのではないだろうか。『赤い小馬』のほうがわかりやすかったせいか、印象に強い。ただ『白いウズラ』が深みのある作品だということはわかり、大学に入ってから、スタインベックに熱中した一時期があった。
ネタバレになるが、粗筋をいうと、メアリーは家を持つ前から自分の庭についてあれこれ考え、細かなところまでイメージを作り上げてしまっていた。それは楽しみの域を超え、彼女の内なる生命の象徴となるほどだった。結婚相手の選択についても、庭がその男性を気に入るかどうか、庭にとって男性がふさわしいかどうかが重要だった。
結婚して実際に庭を持ったメアリーは寛大な夫ハリーに見守られて、庭作りを完璧に行う。メアリーの空想の中では、芝生の端に一列に植えられたフクシアは、外敵から庭を守る役割を果たすことになっていた。無数の妖精が庭の空気を変えていると想い、小鳥たちのために作った池に白ウズラが混じってやって来たことに過度の意味づけをなす。
「あれは私のエキス、完全な純粋さまで煮詰められたエキスよ。ウズラの女王にちがいないわ。あのウズラは、これまで私の身に起きたすべてのすてきなことをひとつにしてくれたのよ」
「これはすべてが美しかったころの私なの。これは私の中心、私の心なの」
と思うのだ。
ハリーには白ウズラがアルビーノ(白子)の普通のウズラにしか見えない。そんなとき、庭に猫が侵入した。彼女はヒステリーの発作を起こす。ハリーに猫の毒殺を頼む。夫は空気銃で脅すだけにしたいという。
だが、メアリーはあくまで殺してほしいのだ。というのも、白ウズラは彼女だったのだから。猫はメアリーを狙い、殺そうとしていたのだから、毒をしかけてほしいのだという。ハリーは早朝に空気銃で猫に痛い目をあわせてやると約束して、何とかなだめる。
翌朝、ハリーは庭に出た。庭に降り立った小さな茶色い一団の中に白いウズラが混じっていた。ハリーは銃を持ち上げ、何と白ウズラを狙い――殺すつもりではなかったが、結果的に殺してしまい、死んだウズラを埋めた。
メアリーは白いウズラが殺されたことには気づいていない。ハリーが自責の念に駆られるところで物語は終わっている。
1935年に書かれたとは思えない、現代的なセンスの短編ではないだろうか。結婚以前から病的な何かがメアリーには潜んでいる。結婚生活がそれを助長した。伏線がさりげなく張られているところにスタインベックの確かな手腕を感じさせる。例えば、贈り物というものは見かけほどではないものだと考えてしまう癖があるとか、ハリーの仕事をメアリーが気に入ってなさそうといったようなことだ。
短編小説として完璧だと思う。しかし、バルザックを読み馴れたわたしには物足りなさがある。バルザックであれば、現象を描写することでは終わらず、不幸な人々の原因を何とか探ろうとしたに違いない。
そして、メアリーとハリーの個人的な特徴の分析を生い立ちから始めて、2人が属する地域全体の歴史、当時のアメリカ社会の病巣に至るまで、様々な角度から分析してみせただろう。また、悲劇性の中にも、人間的な温もりのある滑稽味を見つけ出して微笑ませてくれただろう。
わが国の現代小説は、よく書けていてもスタインベック的なアメリカ文学風なものが多い。袋小路で終わるのだ。尤も、スタインベックほど完璧には書けないからか、あるいは袋小路が息苦しいからか、壊せばよくなると思っているかのように、壊したり寄せ集めたりすることに夢中なお子さまな文学となっている。
スタインベックのような小説のよさは勿論あるけれど、今こそもう一度バルザックのような小説の書き方に注目すべきときが来ているのではないかとわたしは思う。バルザックの書き方を学ぶのは苦労、というより不可能に近い大変さがあるに違いない。それでも、突破口はバルザックのような書き方にしかない気がする。
これから来年の9月までは児童文学作品に熱中することになるが、それが終わったら、一度小説を書こうと思う。
リルケの詩『『薔薇の内部 Das Rosen-Innere』『薔薇 おお 純粋な矛盾 Rose,oh reiner Widerspruch』を富士川英郎訳でご紹介 [らりるれろ]
わたしの基幹ブログ「マダムNの覚書」では、リルケでご訪問になるかたが増えました。特に当ブログでもご紹介した「薔薇に寄せて☆リルケの詩篇『薔薇』のご紹介」へのアクセスが多く見られます。
リルケの詩、小説、評論を読みますと、リルケの作品から薫ってくる優雅さが、絶え間なく続けられる哲学的な思索の襞々から発散されるものであったことがよくわかり、それら一篇一篇を丹念に分析してみたいと感じますが、その時間がなかなかとれません。リルケには、フランス語詩篇『薔薇』とは別に、薔薇をモチーフとした絶妙な詩が他にもあります。
「新詩集」二巻[1907 - 08年]に収められた『薔薇の内部 Das Rosen-Innere』、1922年以後の晩年に書かれた詩作品のうちの一篇で墓碑銘ともなっている詩『薔薇 おお 純粋な矛盾 Rose,oh reiner Widerspruch』を「新潮世界文学 32 リルケ』(新潮社、1971年)よりご紹介しておきたいと思います。いずれも、富士川英郎訳でお届けします。
薔薇(ばら)の内部
何処(どこ)にこの内部に対する
外部があるのだろう? どんな痛みのうえに
このような麻布があてられるのか?
この憂いなく
ひらいた薔薇の
内湖(うちうみ)に映っているのは
どの空なのだろう? 見よ
どんなに薔薇が咲きこぼれ
ほぐれているかを ふるえる手さえ
それを散りこぼすことができないかのよう
薔薇にはほとんど自分が
支えきれないのだ その多くの花は
みちあふれ
内部の世界から
外部へとあふれでている
そして外部はますますみちて 圏を閉じ
ついに夏ぜんたいが 一つの部屋に
夢のなかの一つの部屋になるのだ
薔薇 おお 純粋な矛盾
薔薇 おお 純粋な矛盾 よろこびよ
このようにおびただしい瞼(まぶた)の奥で なにびとの眠りでもない
という
菓子を焼くような――リルケの『薔薇』と書簡の言葉 [かきくけこ]
リルケのフランス語詩篇『薔薇』をわたしの基幹ブログ「マダムNの覚書」で紹介して以来、ほぼ毎日のようにアクセスがあります。
薔薇に寄せて☆リルケの詩篇『薔薇』のご紹介
http://essay2010.blog.so-net.ne.jp/2010-06-04-8
『薔薇』のすばらしさの理由を挙げれば、いろいろとあるでしょう。
この詩篇を他の訳でも読みましたが、山崎栄治訳は格別だとわたしは思います。最初から最後まで呼吸が続いていると申しましょうか、一筆で書いたような軽やかさ、気韻、勢いがあります。
リルケ自身はこの詩をどんな風に書いたのだろうか、とわたしはずっと考えていました。図書館から古い書簡集を借りたところ、『薔薇』について触れたあまりにも何気ない言葉があり、あっと驚きました。その部分を含め、『リルケ書簡集 5 ミュゾットの手紙』(高安国世・富士川英郎訳、養徳社、昭和25年)より抜き書きしておきたいと思います。1924年11月17日(晩)、クララ・リルケ宛に書かれた手紙からの抜粋です(旧字、旧仮名づかいは新字・現代仮名づかいに改めされていただきました)。
“〔略〕要するにそれは次々に不快な何週間かであった。そして私はニ度目のラーガツ滞在の計画を放棄してしまったが、それはあまりに沢山の文通がミュゾットで待ち受けていたからでもあるし、館や薔薇をすぐにまた置き去りにしていくことが躊躇されたからでもあった。そこへラーガツからは、ちょうど非常に旅客が混みあっていて、シーズンの初頭と違って、不愉快な人々がいっぱいだという報せがあったので、終にこの計画を放棄して、ひそかに十月十五日頃にはパリへ行くことになるだろうと考えながら、もっと広く歩き廻ることの出来る後の機会を待つことにした。だが、このパリ行きも結局は御覧の通り実現されなかった。私はあまりに気力が優れなかったし、それを実現するだけの力もなかったのだ。そしてミュゾットで机に向かったまま時を過ごしてしまったが、ここでは兎も角も十月に入ると、ひどかった夏の償いとして、三週間ばかりは真に輝かしい日よりが続いて、ヴァリスがまたその本来の姿にたちかえっていたのだった。仕事の方もいろいろ捗った。嬉しかったのは、この地方でのいろいろな体験を軽く歌った小冊子『ヴァレーの四行詩』というヴァリス風物詩と、それから『薔薇』と題するまったくささやかな一連の詩を、同じくフランス語で書き上げたことだった。これらの詩をつくることは言わば菓子を焼くようなものにすぎなかった。けれどもそれから――(十日間の約束で、本来は他の書きものの目的のために女秘書を雇っていた間に)――ヴァレリイのすばらしい対話『ユウパリノス』の翻訳の最初の暫定的な稿本がたちまち出来上がってしまった。いつかお前がこの翻訳を読むことが出来たら、お前に親密なものや、重大なものや、いろいろのものがそれから得られることと思う。というわけで、いろいろな不満があったにも拘らず、結局「時」はそう悪い扱いをされたわけではなかったが、しかし私はいま無性にパリに行ってみたい。〔略〕”











